蓮子様の上京は1泊4日か2泊5日の強行日程

蓮子様がはなと会うために許された時間はたった一晩だった。せっかく上京するのに、もっと時間を取ればよいのにと思わなくもないが、1919年(大正8年)というのはそういう時代だったのかもしれない。

ダイヤ

以下、想像の翼を広げて書いてみた日程表である(または、とあるのは下関前泊の場合)

1日目(または2日目) 下関発 9時50分 急行4列車(車中泊)
2日目(または3日目) 東京着13時30分 安東家泊
3日目(または4日目) 東京発 8時30分 特別急行1列車(車中泊)
4日目(または5日目) 下関着 9時38分

今日ではヨーロッパやアメリカあたりへのとんぼ返りに近いだろうか。

筑豊から上京する場合、まだ関門トンネルはないので、下関にわたって、そこから汽車ということになる。
大富豪伝助の妻だから、当時、全国でただ一往復しかない国際連絡の特別急行2列車(上り)に乗り、1列車(下り)で帰ってくることを想定した。

さて蓮子とはなは夕方6時に銀座の喫茶店で待ち合わせをする。はなが待ち合わせに遅れるハプニングがあるものの、二人は無事に再会し、蓮子ははな・かよの家に一泊する。翌朝早く、番頭が蓮子を迎えに来る。

これをダイヤで検証してみたい。が、下り1列車の記述はすぐ見つかるのに、上り2列車の記述がなかなか見つからない。

なお時期は1919年(大正8年)春*1である。

この2年後の1921年(大正10年)に運転時刻が短縮されるという新聞記事がようやく見つかった。 現在の膳所-京都間のショートカットによって、所要時間が1時間ほど短縮されたのである。

この2年間でダイヤ改正がなければ、改正前の時刻が蓮子の乗った列車のダイヤだろう。下り東京発は朝の8時30分(東京駅もまだできて日が浅い)。早朝に迎えがくるのも納得だ。

しかし上りの時刻は東京着が20時25分だという。これでは午後6時の待ち合わせに間に合わない。
とすると、蓮子は他の列車を利用してきたのだろうか?

調べると、下関9時50分発の1・2等急行4列車というのもあったようで、これが東京?(または新橋?)に13時30分に着く。これなら間に合う。

伝助と同行したかどうかは定かではないが、東京13時30分着なら、伝助も午後を商用に充てられる。1泊4日(下関前泊なら2泊5日)の強行軍の上京に蓮子が同行したとしても不思議ではない。

蓮子様がどれだけ頑張って上京してきたかを考えたら、遅刻なんて言語道断だ!

はな!ゴー・トゥー・ベーーッド!

車両

さて、どんな車両に乗ったのか。

上り急行4列車の設備についてはよくわからない。下り特別急行1列車について想像してみる。

利用したのは、ほぼ間違いなく6号車に連結された一等寝台車スイネ10005だったろう。蓮子一人だったとしても、開放寝台ではなく区分室に乗ったであろう。

ちなみにこの列車の二等寝台車スロネ10055には、寝台車としては非常に珍しい2人床(ダブルベッド)が採用されていたが、良からぬことをする輩がいたのか、大正7年に大人2人での利用が禁止されたという。

ま、どっちにせよ蓮子と伝助が寝台車に乗ってダブルベッドを利用するとは思えないが。

最後尾は7号車の展望車だったが、このころも上りはきちんと方向転換をやっていたのだろうか。東京・品川、大阪・宮原、福岡・志免の戦後の方向転換は有名だが、戦前の下関付近の三角線に関する記述を読んだことがない。

余談

特別急行には座席車も連結されていたが、当時、座席車は予約ができなかったらしい。ようやく1920年(大正9年)から上りの予約が始まったようだ。

興味深いのは二等座席車(2両のうち、全席ではなく門鉄受け持ち分のみ?)だけではなく、一等車も予約対象という点だ。

寝台車は除くと書いているので、一等車といえば一等展望車しかない。

一等展望車はなんというか、定員外のサロンみたいなものかと思っていたが、しっかり予約対象だったのである。現代でいえばグランクラス相当だが、それでも下関から東京まで25時間の乗車はきつかろう。

*1:2014年6月16日放送 花子とアン(67)冒頭