ESCAPE VELOCITY 第1章(1)

女性だ。ダールは《それ》を一目見た瞬間にそう思った。

それは、言うほど簡単なことではなかった。実際のところ《それ》が頭を剃っていて、グレーのだぼだぼの作業着を着ていたことを考えると、人間だと、まして女性だとダールが認識できたのはかなり上出来だった。デパートのマネキン人形が、プラスチックフェチに持ち去られないように袋詰めにされて衣装と一緒に置かれている、といった方が近かった。

しかし、《それ》は動いた。それでダールには人間の女性だとわかった。

ダールは6週間の出張から帰ってきたばかりで、もうすぐ次の出張に出かけるところだった(上司のコリーは今月"オッカムの剃刀"よろしく部下を1人剃り落としたので、人手不足で困っていた)。惑星ウォルマールの原住民は部族の女性をよそ者の目に触れさせることをしないので、この6週間というもの、ダールは男性やメスの動物を見かけることはあっても、人間の女性を目にしたことはなかった。そのタイミングで《それ》が歩み寄ってきたので、ダールは簡単に女性だとわかったのだ。

いや、女は「歩み寄ってきた」のではなく、大股に歩いてきた。あんまりふんぞり返ってどしどしと歩いてきたので、ダールは女が転んで腰を打つのではないかと思った。作業着姿で、頭はつるつる、顔はすっぴん。

女はバーのスツールに腰掛け、延々と注文を待ち続けた。

きょうバーで働いているのはコリーだけで、客の伍長を相手に「真実とは何か」を論じていた。コリーはまだまだ話を終わらせるつもりはなさそうで、女は待つしかなかった。

もっとも、女が気にしているのは待たされていることではなさそうだった。バーの端では兵士が二人いた。女は二人の様子を見こそしていなかったが、じっと聞き耳を立てていた。

「やつにはチャンスはなかった」グレーの髪の兵士がタバコを手にまくしたてた。「じっと下げていた頭を上げた途端にバン!命中!」

「やつを外に出してしまうか?」金髪の方がニヤリとした。

「そうしよう!なぁ!二度と戻ってこられないほど遠くに!いいか、よく聞け?やつはもう終わりだ。俺がやる!」

女の唇がキッと結ばれ、喉が動き、もうこれ以上黙っていられないという暴発寸前のタイミングでダールは女の様子に気づいた。兵士たちは気づいていなかったので、ダールは気づいてよかったと思った。

 

6週間も女っ気なしで過ごしたので、ダールには女性からもたらされるものにはなんであれ反応する準備ができていた。

そこでダールは女と兵士の間に割り込み、できる限り誠実そうな、高い声をつくって話しかけた。「この辺りでは、注文が出てくるまでに時間がかかるようですね?」

女は一瞬、びっくりして無表情になった。そして唇を歪め、吐き出すように言った。「ええ、死以外はね。この辺りじゃ、あなたたちのような制服を着た連中が、簡単に人を料理できるみたいだから!」

「制服?」ダールは自分が着ている緑の作業服とマキノーコートを見下ろしてから、二人の兵士に目をやった。二人は驚き、むっとしているようだ。ダールはすぐに女に向き直った。「申し訳ないですが、ミズ、今年は殺人なんてまだ一件も無いですよ?」

「ええ」女は言い返した。「まだ1月7日だから。あの二人の《バム》が話していたのは殺人じゃないの?」

店の外に人影が見えたが、女は無視していた。だからダールは、女の言う《バム》が外を歩いていた二人の上等兵曹のことであって、決してバーの中の二人のことではない、などととぼけることはできなかった。さらに悪いことに、この二人にはニューパース出身者特有の訛りがあった。ニューパースでは《バム》には無職という意味だけではなく、もっと悪い意味があるのだ。

年上の兵士が怒鳴りかけたが、ダールは素早く割り込んだ。「得点ですよ、ミズ。信じてもらえないかもしれませんが、2人が話していたのは得点のことですよ」

女は疑わしそうに一瞬黙り込んだが、ほんの一瞬のことだった。女は、自分が絶対に正しいと確信している(が、実は間違っている)時特有の表情をして、ダールに迫った。「どうしてそんなことが信じられるの?あなたは何者?兵士じゃないの?」

「こう見えて昔はパイロットだったんだぜ……」ダールはくだけてみせたが、失敗に終わった。


「そう言えば感心してくれると思った?」女は意地悪く返事をした。

 

「入隊した時はそう言われたけどなぁ」ダールはため息をついた。「時には感心されたこともあったよ」

「この惑星は陸軍の監獄惑星だと思ってた」

「合ってるよ。陸軍の宇宙船もある」

「どうして?」女は顔をしかめた。「海軍の船を信用してないの?」

「まぁ、そんなところさ」

「自信あるのね。何のパイロットだったの?はしけ?」

ダールは認めた。「そう、宇宙はしけ」

「それで今は?」

ダールは肩をすくめ、大人しそうに言った。「貿易商」

「貿易商?」女が憤慨して大声を出したので、コリーでさえちょっと振り向いたーーほんの一瞬。「それじゃあ、あなたは貧しくて無力な先住民を犠牲にしている吸血鬼なの?」

「無力だってよ!」年上の兵士が異議を唱えたーーもとい、爆笑した。ダールは頭をかいた。「よく分からないんだけど、ミズ。誰も誰かを犠牲にするような商売をしたりしていないよ」

「いいえ、分かるの」女はまくしたてた。「先住民を追いちらし、犠牲にし、土地を奪い、文化を破壊するーーいつも同じ!キューバを征服したコルテスの時代からずっとずっと繰り返されている同じパターン。欲しがってもいないのに進んだ技術を与える。どんな宗教が適しているかも知ろうとせず聖書を与える。土地の所有権など無視して居留地に追い立てる。でなければ奴隷にする。私は人から聞いて、本で読んで知ってるの。ここでも同じことが起こり始めているのに、あなたたちはただ見ているだけ。集団虐殺、それよ!帝国主義がもたらす最悪のもの!私たちの素晴らしい恒星間自治選挙区(IDE)に忠誠を誓う兵士たちがこんなことをやるなんて!帝国主義者どもめ!」女は唾を吐いた。

まるで悪天候の前の観測気球のように二人の兵士の頰が膨れあがったが、嵐がくる前にコリーがおしゃべりをやめてカウンターの端に飛んできた。途中でダールに文句を言う。「おい、前に言っただろう?理由だよ?いい子だから、ちゃんと理由を確かめてごらん?」コリーはそれだけ言うと、怒っている二人をまぁまぁとなだめに行った。

ダールは、理由なら何度も確かめようとしたがうまくいかなかった、と思ったが、それでも深呼吸して、もう一度やってみることにした。「えー、ミズ、まず最初に言っておくと、ここでは先住民を追いちらしたりしてはいないし、むしろ集められた、と言った方がいい」

女は顔をしかめた。「何を言っているの?あぁ、ここは監獄惑星だから、ってこと?」

「まぁ、そうとも言える」

女は肩をすくめた。「同じことよ。来たくて来たわけではないにしろ、あなたたちはここにいる。千人単位で送られてくる」


「数百人ってところかな、実際のところ」ダールは耳の後ろをかいた。「たぶん、二百人か、三百人くらいの……ええと……」


「入植者ね」女は厳しい声で言う。


「……囚人、かな」ダールは締めくくった。「年間にね。ちなみに俺は《新入り》だよ」


「それも関係ないわ」女はぴしゃりと言った。「重要なのはここに着いてからやっていること。外に出て、貧しく無知な先住民に戦いをしかけて、あなたたち貿易商は彼らを騙して儲けているんでしょう?聞いているわよ?」


「聞いているって?」ダールは元気になった。「この星も有名になったもんだ。どこで聞いたんだい?」

女はもどかしそうに肩をすくめた。「それがどうしたの?なにか関係ある?」

「俺にとっては大いに、ね。さらに言うと、俺たちの大部分にも。もし君が、このテラ勢力圏の端っこでにっちもさっちもいかない状況になったとしたら、人々が自分の星を知っているかどうか、気にするようになるだろうね」

「うーん……」女の顔がいっとき和らぎ、考え込むような表情になった。

「今から言うことはあまり助けにはならないかもしれないけど……。私はテラで、超常現象局(BOA)の記録部門に勤務していたの。そして、たまにウォルマールについて報告が入ることがあったの」


「あぁ」ダールは沈み込みそうになった。「公式の報告書だけ?」


女は少しだけ同情したようにうなずいた。「役人と、あともちろんコンピュータ以外は、だれも見たことがないわね」

「もちろん、ね」ダールはため息をついてから、伸びをした。「まぁ、全く何もないよりはマシ、だと思うことにしよう。なんて書いてあった?」

「もういいでしょう」女は悪意のある笑みを浮かべた。「私が知っているのは、罪を犯した兵士の監獄惑星ということ、管轄しているのはサドマゾ将軍だということ、争いが起こらない日はほとんどないこと……」


「休日と」ダールはぶつぶつ言った。「日曜日は休みだよ」

「ほとんど、って言ったでしょう!そして、先住民との取引でボロ儲け。ガラスのかけらや、補給係将校を通じて発注した余り物のパーツと引き換えに、麻薬植物を入手していること」

「それで全部?」ダールはしょげて言った。


「全部よ!」女は憤慨してダールをじっと見た。「まだ十分ではない?何が知りたいの?戦争犯罪リスト?」


「ああ……」ダールはかすかに身振りをした。「色々良いこともあるんだーーこのバーのこととか、休日がたくさんあることとか……」

「軍の腐敗、規律の乱れ」女は鼻を鳴らした。「もし私が局にいたなら、隠蔽行為の報告をたくさん見ることができたでしょうね」

「『もし局にいたなら?』」ダールは目を上げた。「君はBOAを辞めたのかい?」

女は顔をしかめた。「BOAで働いていたら、ここに来られたと思う?」

ダールは女を見つめるばかり。

それからダールは頭を振って言った。「ミズ、君がここにいることについて、考えられる唯一の理由は、BOAが君を派遣したというものだ。ここに来たかったのは誰だい?」

「私よ」女は冷笑した。「考えてみて。政府職員だったら、こんな格好で働いていると思う?」


ダールは無表情になり、肩をすくめた。「分からない。どうなんだい?」

「もちろん無理よ」女はぴしゃりと言った。「髪をきちんとセットして、肌にぴっちりフィットしたシースルーの服を着て、ヒールを履く。5年も続けてきたわ」


「嫌だったのかい?」

「あなただったら、たくさんの異性から毎日じろじろみられたい?」

ダールはにやっとした。

「とにかく、私は嫌だった」女は顔を赤らめた。

「それが辞めた理由?」

「他にもある」女は厳しい顔で続けた。「コンフォーミストどもの間で過ごすことにうんざりしていた。だから私は出し抜いてやったの」


「出し抜いた?」ダールは完全に話を見失った。


「出し抜いた!辞めた!出ていってやった!」女は叫んだ。「《ヒューム》になったの」

「《ヒューム》ってなんだい?」

女は憤慨した。「この惑星の外で何が起きているか、本当に何も知らないのね」

「何かその手のものをほのめかすことはできるけどね、年に3回、貨物船がやってきたときにしか外のニュースは分からない。超光速無線が開発されない限り、テラのニュースを知るのは2年後だよ」

女はいらだって言った。「まったくもって原始的なレベルなのね!説明するわ。《ヒューム》は私のような、ノン・コンフォーミスト、異端者のことよ。だぶだぶの灰色のつなぎを着ているから、いやらしい目で肉体をじろじろ見られることはない。頭を丸めているから、毎日髪をセットしなくてもすむ。監獄社会でいう《仕事》に甘んじない。むしろ貧しくあることを好み、時間をかけていくばくかの貯えをつくり、GNPを分け合い、半端仕事もやって、どうにか成り立っている。IDEがやらせたいことではなく自分たちがやりたいことをやる、それが《ヒューム》」

ダールは口をすぼめ、少しだけ目をうつろにした。「それで、君はコンフォームしないんだね。オーケー」


「そうは言ってないわよ!分からず屋。私はノン・コンフォーミストと言ったの」

「あ、ああ」ダールはうなずいた。「違いは分かったーー分かったと思う」

女はダールの方に向き直ったが、コリーの方が早かった。「まず歴史を知らなくちゃな。歴史を知らなかったら、人間の社会で何が起こったのかを理解することができないからな。最初にノン・コンフォーミスト、異端者の話をしよう」

「ノン・コンフォーミストは1500年代の終わりごろから登場してきたんだがね、シェークスピアの『十二夜』に登場するマルヴォーリオもノン・コンフォーミストだ。英国教会の信徒は、ピューリタンカルヴァン派、バプテスト、アナバプテスト、英国教会に属さないその他プロテスタント系の諸派を一緒くたにして『ノン・コンフォーミスト』と呼んだ(自称ではなく他称だ、よくあることだが)。それは、彼らが公定教会(もちろん英国教会のこと)に画一的になびかなかった(コンフォームしなかった)からだ」

クロムウェル率いるピューリタンの円頂党たちを描いた絵をみると、なんと!彼らは同じケースに入った瓶のようにお互いそっくりだ。反主流派のカルチャーの内部では、主流である英国教会のメンバーよりも、お互いにずっと画一的だったんだ。そしてそれがいまも続いている。だから、ノン・コンフォーミストというのは、自分自身が所属するグループに画一的になびかないという意味ではなく、グループ全体が、主流のカルチャーに対して画一的になびかないという意味で使われる。だから、反主流派はすべてノン・コンフォーミストと呼ばれる。……あぁ、軍曹……」コリーはそう言って、仕事に戻った。

《ヒューム》はコリーを見つめて、深くうなずいた。「彼の言う通りね。考えてみると……」女はダールをにらんで言った。「彼は何者?バーテンダー?それとも教授?」

「コリーは」ダールは説明口調で言った。「私のボスだよ」

《ヒューム》は顔をしかめた。「あなた、ここで働いてたの?ちょっと!」


ダールは女の顔が険しくなるのを見て、笑みを浮かべた。「そう。コリーはオーナーで、社長で、ウォルマール医薬品貿易会社を統括している」

「麻薬の運び屋のボスってこと?」女は憤慨した。「悪徳資本家で、奴隷たちの主人で」

「まさか。協同組合の簿記のようなものさ」

激怒した女は席を蹴って立ち、きつい一言を浴びせようとしたが、何も思いつかなかったので、軽蔑の眼差しで睨みつけるしかなかった。

ダールは軽蔑に対して最大限丁重な態度で応じた。

女は背を向けてグラスを掴み、一気に呷った。ーーそして、突然、グラスを持っていたことに気づいた。

ダールがコリーに目をやると、コリーはウィンクしてうなずいてから、もっと大事な、小石を蹴飛ばすという重大な局面についての議論に戻っていった。

《ヒューム》は自信を失ったように見えた。ため息をついて肩をすくめ、もう一杯飲んだ。「怒らないのね。さて……」女はダールに向かって言った。「どちらにしても、あなたは否定できる?」


ダールはひょいと頭を下げた。それから周りを見回して、女が他の誰かに対して言ったのではないかというありえない望みを抱きながら向き直った。「否定するって、何を?」

「全部よ!私がこの星について話したことすべて。全部本当なんでしょう?まず最初は総督について!」


「あー、えーと、シャックラー将軍はサディストではないよ」

「でもマゾヒストなんでしょう?」

ダールはうなずいた。「けれど、とてもうまく適応しているよ。ほかの部分については……否定はできない。けれど、強調すべきところを間違えている、かな」

「理由ならちゃんと聞くわ」《ヒューム》は力をこめた。「説明して」

ダールは首を振った。「説明はできない。自分の目で確かめてほしい」

「もちろんよ」女は眉を吊り上げた。「聞いてもいいかしら?どうすればいいの?」


「えーっと」ダールは大慌てで起こりうるリスクとベネフィットを計算した。50対50。そこで彼は笑って言った。「えー、あいにく、俺はそろそろ取引にでかけなくちゃならない。一緒に来るなら歓迎するよ。安全を保障することはもちろんできないけど、実際は少しばかり退屈なものだよ」

《ヒューム》は彼をじっと見つめた。ダールはもう少しで女が厚い殻に閉じこもるところを見るところだった。しかし何かカチッという音がして、女の目に再び反抗の色が浮かんだ。「分かったわ」女は残りをグッと呷って、グラスをバーカウンターにドンと置いた。「さあ」女は立ち上がって、親指をポケットに突っ込んだ。「行きましょう。あなたの荷物を載せたラバはどこ?」

ダールはニヤリとした。「もう少し文明は進んでいるけどね。ま、すぐ外にあるよ。よろしいですか?」そう言って女をドアの方に案内した。

女はもう一度軽蔑したような一瞥をくれてから、ダールの前を通り過ぎていった。ダールは笑みを浮かべて従った。

コリーはまだ軍曹に話を続けていた。「デカルトは全てを証明したいと感じたんだ、わかるかな、この世の何もかも、一切の仮定なしに」

「ああ、わかるよ」軍曹は渋い顔でうなずいた。「彼が何かを仮定して、それが間違いだと分かったとする。それはつまり、あらゆるものが間違いでありうる、ということなんだろ」

「その通り、その通り」コリーは激しくうなずいた。「そこでデカルトは立ち止まって、宿をとり、缶詰になって考えたんだ。確実に存在すると言えるものを見つけるまで外に出ないってね。そして、考えて、考えて、ついに分かったんだ」


「なんだい、そりゃ」


「彼は考えていた!そして、彼が考えていたってことは、考えている何かがそこにいたことは間違いない。そしてそれはもちろん彼だ。彼が考えているってことは、彼が存在するってことだ。単純明快!」

「あ、ああ」軍曹の顔が悟りを得た満足で火照り、《ヒューム》は戸口で立ち止まって振り返り、じっと尊敬の念を込めて見ていた。

コリーは勝利に晴れ晴れとした顔をしてうなずいた。「それでデカルトはすぐその場で彼の発見を説明して、読めるように書き留めた。コギト・エルゴ・スムとね。当時の哲学者はみんなラテン語で書いたのさ。意味は『我思う、故に我あり』だ」


「あ、ああ、分かったよ」軍曹は頭をかいて、コリーを見上げた。「そうか、それが人間を人間にしているものなんだな、つまり、考えるってことがね」

《ヒューム》は、身震いしながら深呼吸した後、ダールの方を向いた。「ここは何?居酒屋?それとも大学?」
「さあ」ダールはドアを押し開けた。「どうぞ?」

二人は午後のまだ明るい光の下へ出た。ダールはそりを置いてある場所へ《ヒューム》を連れていった。そりは長細く、防水シートがかけられた商品が凸凹に積まれていた。「残念ながら俺たちのスペースはない。一オンスでも積荷に回したいからね。歩こう」

「先に答えを教えて」《ヒューム》は腰に手を当てて仁王立ちになった。


「答え?」ダールはびっくりした。「何の?」

 

「私の質問の、よ。あなたのボスは何者?資本家?道徳も倫理も気にしない詐欺師の貿易商?バーテンダー?それとも教授?」

 

「えっ」ダールはしゃがんで、防水シートの結び目を確かめた。「うーん、俺はボスのことを資本家とは呼ばないね。商売をやらせても収支トントン以上になった試しがない。それに、聖職者並みに道徳的だし、銅像が立つくらい倫理的だ。誰からも何かを騙し取ったりしていない。それはそうと、君はなかなかボスのことをよく見ているね」

「それじゃあ、彼は教授なのね!」

 

ダールはうなずいた。「以前はルナの大学で教えていたよ」

 

《ヒューム》は顔をしかめた。「どうして?なんで今バーテンダーをやっているの?」

 

ダールは肩をすくめた。「バーマンという苗字から思いついたんだと思うよ」

 

「バーマン?コリー・バーマン?まさか!チャールズ・T・バーマンなんてことは……」

 

ダールはうなずいた。

 

「だって、あの有名な……というか、今生きている中でもっとも有名な教師じゃない!」

 

「悪名かもね。さて」ダールは荷物をぎゅっと結んで立ち上がった。「ボスの考え出した教育理論の中にはたいそう奇抜なものもあるからね。推測だけど、あまり評判は良くなかったね」

 

「そう聞いたわ。でも分からない。彼は言っていたはずよね、すべての人が大学教育を受けるべきだと」


「これまでに大学を卒業した人にとっては脅威になる話だね」ダールは優しく微笑んだ。「コリーはこんなことも言った。教育はすべて、一対一で行われるべきだと。これで政府内でのコリーの評判は非常に悪くなった。一体どれだけたくさんの教師の人件費が必要か考えると当然かな。さらにコリーは、教育は形式ばらずに、生徒が教育を受けていると気づかない方法でなされるべきだ、とも言った。教授はバーテンダーのように、仮面をかぶるべきだとね。これで教育者の間での評判も落ちた」

 

《ヒューム》は渋い顔をした。「それは聞いたことがなかったわ」

 

ダールは肩をすくめた。「出版されたよ。読むこともできた。ただ、LORDS党が彼の本を配信システムのリストから外す前に、どうにかしてコピーを手に入れられていれば、の話だけどね」

 

「そう」女は何か酸っぱいものを口にしたときのような、落胆した表情になった。「もう、以前のような出版の自由はないのね」

 

「まさか、そんなことはない。ただ、バーでコリーが軍曹に熱心に話をしていた理由はもう分かっただろう?コリーは教育のチャンスは逃さない。客が話に乗ってきたら、奥の小部屋に案内される。そこには栓の開いたビヤ樽と、壁一面の本がある」

 

女は少し目が眩んでいるようだった。「考えてみると、あなた自身も本に無知というわけではなさそうね」

 

ダールはニヤリとしてロープを掴んだ。「行こうか」

 

二人はとぼとぼと裏道を下りていき、プラスチクリートで舗装された通りに入った。《ヒューム》はダールのそばで考え込んでいる。

 

女は顔を上げて言った。「それにしても彼はここで何をしているの?理論を実践しているのね、それは間違いない。けれど、どうしてここで?もっとテラに近い、豊かな惑星だってあるのに」

 

「うーん、その件はLORDS党と何らかの関係がありそうだね」

 

ファシストどもめ!やつらが議会を掌握しようとしているのは知っていたーーけれど、教育まで嫌っているとは」

 

「それはそうさ」ダールは両手を広げた。「彼らは真に効率的な中央政府を欲している。つまり全体主義だ。そして全体主義の政府にとって最も大きな脅威の一つは、自由な教育なんだよ」

 

「ええ」女は混乱した様子だった。「もちろんそうね。それでやつらは何を?」

 

「そうだね、コリーは話したがらないけれど、推測するに、コリーはルナで暗殺されそうになって、逃げ出したんだと思う。暗殺者は追跡し、コリーは逃げ続けて、ここに来た」

 

「いまでも暗殺者に狙われているの?」

 

ダールは笑みを浮かべた。「いいや。ここはシャックラーが治めているからね。ところで、これから一緒に旅をするんだ、そろそろファーストネームで呼び合うのはどうかな?俺は、ダール・マンドラっていうんだ」そう言ってダールは手を差し出した。

 

女はいま一度尻込みしかけたが、それから、ゆっくりと手を伸ばして、彼の目をじっと見た。「サマンサ・バインよ。サムと呼んでちょうだい」

 

ダールはサムの手を取り、暖かく微笑んだ。「よろしく、サム。教育の場へようこそ」

 

「ええ」サムはゆっくりと言った。「報告書には書かれていなかったことが、ここにはたくさんあるわね」